生物学誌BioEssaysに、英国の海藻学者キャサリン・メアリー・ドゥルー・ベーカー女史(Kathleen Mary Drew Baker, 1901~1957)についての記事が掲載されました。没後半世紀以上が経つドゥルー女史は、遠い日本の水産業関係者の間で今なお「海の母」として尊敬され、熊本県宇土市ではその功績を顕彰する「ドゥルー祭」が50年にわたって続けられています。ドゥルー女史と日本とのつながりは、どのような縁から生まれたのでしょうか?
⇒ Harris, C., Matsuda, K. and Sattelle, D. B. (2013), Dr. Kathleen Drew-Baker, “Mother of the Sea”, a Manchester scientist celebrated each year for half a century in Japan. Bioessays, 35: 838–839. doi: 10.1002/bies.201300061
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今でこそ手頃な値段でどこでも手に入る海苔ですが、江戸時代初めに始まった養殖技術はなかなか確立されず、年によって収穫量が不安定なために、価格は相場に大きく左右されていました。さらに1940年代後半には、水質汚染や台風の打撃を受け、日本の海苔養殖産業は壊滅の危機に瀕しました。
ちょうどその頃、はるか英国でマンチェスター大学に勤めるドゥルー女史は、ウェールズ地方の海岸に産生し日本の海苔ときわめて近い海藻Porphyra(アマノリ)の生態を研究していました。1949年にドゥルー女史は、貝殻に付着していた糸状の菌(Conchocelisと命名)がPorphyraの胞子であることを発見し、この海藻の生長過程を初めて解明することに成功しました。
ドゥルー女史からこの発見を伝える手紙を受け取ったのが、彼女と親交のあった九州大学の瀬川宗吉教授でした。同教授を通じてこの発見を知った熊本県水産試験場鏡分場の太田扶桑男技師は、その知識を基にして研究を重ね、1953年に海苔の人工採苗に初めて成功しました。それによって海苔は毎年安定して十分な量を収穫できるようになり、日本の海苔養殖は見事な復活を遂げました。
ドゥルー女史は、1953年からBritish Phycological Society(英国藻類学会)の初代会長を務めたのち、1957年に癌のため世を去りました。日本の海苔養殖産業が復興し、ドゥルー女史の発見のインパクトが十分に理解されるようになったのは、彼女の没後のことでした。1963年、ドゥルー女史の偉業を讃える記念碑が、海苔漁民の寄付によって有明海を見下ろす熊本県宇土市の住吉公園に建立されました。“Mother of the Sea”(海の母)と刻まれたこの記念碑を囲んで毎年4月14日に催される「ドゥルー祭」は、今年2013年に50周年を迎えました。
母国では藻類学の専門家以外にはほとんど知られていないというドゥルー女史ですが、その純粋に生物学的な発見が海を隔てた日本で一つの産業を立て直し、50年を経て今なお顕彰され続けているという歴史上の意外なエピソードに、感慨を覚える人は多いのではないでしょうか。
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