ウォルフ・キシュナー還元(キシュナーによる発見は1911年/翌年にドイツのルートヴィッヒ・ヴォルフが独立して発見)に名を遺すロシア・ソ連の有機化学者ニコライ・キシュナー(Nikolai Matveevich Kizhner, 1867-1935)の生涯と業績をまとめた略伝が、Angewandte Chemie International Edition (ACIE) に掲載されました。
- 記事はこちら ⇒ Lewis, D. E. (2013), Disability, Despotism, Deoxygenation—From Exile to Academy Member: Nikolai Matveevich Kizhner . Angew. Chem. Int. Ed.. doi: 10.1002/anie.201303165
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モスクワ大学で化学を学んだキシュナーは、1896年に皇帝ニコライ二世によってシベリアのトムスクに設立されたばかりの技術研究所に招かれ、1900年に有機化学の初代教授として着任しました。このトムスクを拠点に、キシュナーはウォルフ・キシュナー還元の発見をはじめとする数々の成果を上げ、有機合成化学者として世界的な名声を高めていきました。
しかしその過程で、キシュナーを深刻な病が襲います。原因不明の壊疽により、キシュナーは1904年に右脚、1910年に左脚のそれぞれ膝下切断を余儀なくされ、以後は車椅子での生活を送ることになりました。この障害にも負けず、彼は情熱を持って研究活動を続けました。
ところが、もう一つの災難によって、キシュナーはトムスクの地を追われる運命となります。1905年にロシア第一革命が勃発、政治的に進歩派だったキシュナーは革命運動に共鳴し、教員や学生のストライキを主導しました。この政治活動が、保守的な気風のシベリアでは一部の同僚らから疎まれることにつながり、政府も加わっての圧力を再三受けた彼は、ついに1912年、健康上の理由を名目に辞職を強いられました。
その後のキシュナーは、学生時代を過ごしたモスクワに戻り、染料の研究など応用面に関心を移しながら、大学・研究所などの職を歴任しました。1917年の革命の成功により樹立されたソビエト政府がの下で、彼は科学アカデミー会員に選ばれるなど数々の栄誉に輝いた後、1935年に、68歳の誕生日を目前にして、研究室内で仕事中に息を引き取りました。体の障害や政治的圧力によって研究活動を脅かされながらも、自らの信条と化学者としての意欲を守り続けた生涯だったと言えるのではないでしょうか。