世間を大きく騒がせた「STAP細胞」問題には、科学コミュニティの外にいる一般の人々に、実験や論文執筆といった科学者の日常的な活動について知る機会を与えるという予想外の効果があったように思えます。中には、科学者が当然のこととして行っている営みが、事情を知らない人に意外感や驚きを与えることもありました。先日の「実験ノート公開」がその好例で、記録された内容そのものとは別に、「科学の最先端のはずの研究室で、どうして今どき紙のノートに手書きしているの?」と疑問に思った人が少なからずいたようです。
もちろん、「紙に手書き」のほうが後で改ざんしにくく証拠能力が高まるのが最大の理由ですが、そのために、電子化によって得られるはずのさまざまな利便性を犠牲にしていることも否定できません。現時点では多くのラボで紙の実験ノートが主流なのは間違いありませんが、その一方で、製薬メーカーを中心に既に実験ノートの電子化が進みつつあります。大学でもウィスコンシン大学マディソン校のように、研究活動の生産性を高める狙いで「電子実験ノート」の可能性を探る動きがあります。独ゲッティンゲン大学の研究グループは、EMBO(欧州分子生物学機構)の速報誌 EMBO reports に寄稿したエッセイで、実験ノートの電子化による効用やそれに伴う課題などを整理しています。
- 記事を読む Nussbeck, S. Y., Weil, P., Menzel, J., Marzec, B., Lorberg, K. and Schwappach, B. (2014), The laboratory notebook in the 21st century. EMBO reports. doi: 10.15252/embr.201338358 (オープンアクセス)
実験結果の多くは電子データの形で得られますが、それをプリントアウトしてノートに貼り付けるというのは理想的な記録方法ではありません。また、紙のノートでは、過去の実験データを探し出すのに多大な手間がかかります。例えばラボを辞める人からデータを引き継ぐ場合を考えると、何冊もの紙の実験ノートと多くのフォルダに分けられたデータを受け取っても、ラボ内でフォルダの階層構造・ファイル名の付け方・用語法などが統一されていない限り、実際に利用するのは非常に困難です。
こういった問題を克服し、検索性など電子化の利点を生かすため、「電子実験ノート」(Electronic Lab Notebook = ELN)がソフトウェアとしていくつも開発されています。多くのELNソフトはタブレット端末に対応しているため、紙のノートに劣らない携帯性も確保できます。実験を誰がいつ、どのような環境で行ったといった「メタデータ」を記録しやすいのも電子化の利点です。紙のノートではラボ内の「暗黙の了解」として省略された部分まで、明示的に残すことができ、再現性を高めることが期待されます。
とはいえ、そういったELNソフトを導入すれば万事解決というほど簡単ではありません。著者らは、導入に際して、記録用として適切なテンプレートの作成、データのバックアップ体制など、インフラ構築に相当の投資が必要と指摘しています。ELNソフトのアップデートに対してデータの互換性が保証されているかというのも重要な考慮ポイントです。
外部の機関との共同研究の機会が増える中、電子実験ノートには共同研究者とのデータ共有が容易というメリットもあります。しかしデータ共有には、未発表データの保護を損なうリスクもあり、著者らは各人のアクセス権の管理に注意を喚起しています。