野副鉄男博士(右写真・1902-1996年)は、第二次大戦後に東北大学理学部教授として活躍し、ヒノキチオールの発見をはじめトロポノイド化学の発展に偉大な足跡を残した有機化学者です。東北大学に着任する前、野副氏は1929年に台湾に渡り、日本の統治下で設立された台北帝国大学(戦後は国立台湾大学と改称)で1948年の帰国まで教鞭を執りました。
野副氏が台湾を去ってから70年近くが経ち、台北帝国大学時代の野副氏を直接知る人はもはや少なくなっています。国立台湾大学でタンパク質化学者として活躍したTung-Bin Lo元教授は、その数少ない一人です。Lo氏は、1946年から野副氏が日本に帰国する1948年まで台北帝国大学で教えを受け、その後も一時的な中断を挟んで、1996年に野副教授が亡くなるまで50年にわたって深い親交を持ち続けました。
そのLo氏が、台北帝国大学での野副氏の様子とその後の交流を自ら語る貴重なエッセイを、The Chemical Record誌で発表しました。Lo氏が口述した回想を元同僚のTien-Yau Luh教授が原稿に起こしたもので、台北帝国大学の研究室などで撮影されたLo氏の個人所有の写真も多数掲載しています。
- このエッセイを読む ⇒ Lo, T.-B. (2015), Professor Tetsuo Nozoe and Taiwan. The Chemical Record. doi:10.1002/tcr.201402099 (無料公開)
1948年の帰国にあたり、野副氏を乗せた船を見送るため、多数の台湾人の同僚やLo氏ら教え子たちが港に集まり、日本語で別れの歌を歌いました。しかし、その歌はその場にいた警官によって止められました。当時の台湾では、台湾人が公の場で日本語を話すことを禁じられていたためです。警官との激しい押し問答の末、何とか歌を認められた彼らは、野副氏の船が水平線の彼方に消えるまで日本語で歌い続けました。この逸話は、当時の台湾で多くの本に掲載され、広く知られることとなったそうです。
日本に帰国後の野副氏は、東北大学で研究室を立ち上げるのに多忙で、Lo氏らとの連絡が途絶えていましたが、1959年にLo氏が東北大学に立ち寄ったのを契機として交流が再開しました。1962年に14年ぶりに台湾を訪れてから、野副氏は日本と台湾との間を頻繁に行き来し、友人と旧交を温めるとともに、第二の故郷というべき台湾の化学研究の振興を図るために積極的に活動しました。そういった様子を詳しく記録したこの回想録は、同時に化学者同士の国境を越えた師弟愛・友情について語るものともなっています。
■ The Chemical Record誌では、野副氏が生前に世界各国の化学者から集めたサインを載せた1,200頁に及ぶサイン帳のオンライン復刻を進めています。このサイン帳は、The Chemical Record誌の2012年10月号以降の各号に連載されているほか、特設サイト(無料公開)でもご覧いただけます。