ドイツの化学界が誇る輝かしい歴史の中で、第二次大戦前・戦中のナチ政権への協力はその最大の暗部となっています。ナチ政権下では、さまざまな分野でユダヤ人科学者らの公職追放や戦争遂行のための研究が行われましたが、化学分野ももちろん例外ではありませんでした。むしろ外国からの物資輸入に頼らず来たるべき戦争に備えるために、燃料・材料・爆薬の合成など化学の役割が最重要視されたといえます。しかし当時のドイツ化学会とナチ政権との関係は、ナチ政権に協力的だった関係者が戦後に化学会の要職に復帰するなどデリケートな部分が多かったこともあり、詳細が十分に解明されていませんでした。
そうした中で、ドイツ化学会(GDCh)は2007年、当時の化学会がナチ政権にどのように協力したかを明らかにするため、高名な科学史家として知られるHelmit Maier教授に研究を委嘱しました。その結果が “Chemiker im Dritten Reich”(第三帝国の化学者たち)という本(ドイツ語)にまとめられ、今年3月にWiley-VCHから出版されることになりました。独ブラウンシュヴァイク工科大学有機化学研究所のHenning Hopf教授が、Angewandte Chemie Internation Editionへの寄稿(Editorial)で本書の出版の背景を解説しています。
- Hopf教授の記事を読む Hopf, H. (2015), The German Chemical Society (GDCh) and Nazi Germany. Angew. Chem. Int. Ed.. doi: 10.1002/anie.201500846 (無料公開中)
当時のドイツ化学会は、学術色の強いDChGと産業寄りで応用志向の強いVDChなどに分かれていました(後者の学会誌がAngewandte Chemie)。それら化学会の歴史については、ドイツの東西分裂時代からいくつかの先行研究が出版されていますが、必ずしもナチ政権時代に焦点を当てたものではありませんでした。また東独など東側諸国に押収された史料は閲覧が不可能であったり、西側の史料も多くが機密扱いを受けるなど、当時の歴史は研究が困難でした。さらに、前述のようにかつてのナチ協力者が戦後の化学界に多く残っていたこともあって、過去のことは蒸し返さないようにしようという空気があったとHopf教授は言います。東西冷戦の終結・ドイツ統一によって史料の公開が進むとともに、当時の関係者のほとんどが世を去った結果、今回のように踏み込んだ研究が可能になったと言えそうです。
ナチ政権の政策・思想の柱となった概念 “Gleichschaltung”(強制的同一化)とは、ドイツ国民の生活全般をナチ政権の方針に従属させることをめざすもので、その思想の下でユダヤ人科学者の追放などの政策が遂行されました。Hopf教授によると、今回のMaier教授の新著は、ナチ党が権力を掌握する1933年よりも前からDChG・VDChが「自発的な従属」を進め、ナチ党の方針を学会に取り入れていった過程を詳しく分析しています。さらに1939年の第二次大戦勃発が迫るにつれて、化学会は戦争遂行に直接かかわるプロジェクトに深く関与するようになり、Wehrchemie(防衛化学)と称する戦争のための化学が大学のカリキュラムに採用されるといった形で表れました。
本書は団体としての化学会に焦点を当てているため、個別の人物を描くことには主眼を置いていませんが、化学会の会員でナチ政権の犠牲となった人物やナチの協力者で戦争で命を落とした人物も多く登場するということです。第二次大戦の終結・ナチ政権崩壊から70年の節目を迎える今年にふさわしい出版企画で、今後英訳・邦訳の出版が待たれます。
本書の詳細
Chemiker im Dritten Reich
Helmut Maier
ISBN: 978-3-527-33846-7
Hardcover / 736 pages / March 2015
US$ 135.00