ハーバード大学のジョージ・ホワイトサイズ (George M. Whitesides) 教授は、有機化学、核磁気共鳴分光法、自己組織化、ナノテクノロジーといったきわめて多岐にわたる分野で独創的な業績を残してきた稀有な化学者として知られています。そのホワイトサイズ教授が、このほどAngewandte Chemie International Edition (ACIE)に寄稿したエッセイ “Reinventing Chemistry” で、現在の化学研究の問題点と今後の化学が進むべき方法について詳細に論じています。研究室のモットーに “to fundamentally change the paradigms of science” (科学のパラダイムを根本的に変える)という言葉を掲げる同教授ならではの、刺激的で読み応えのある論考となっています。
- ホワイトサイズ教授のエッセイを読む Whitesides, G. M. (2015), Reinventing Chemistry. Angew. Chem. Int. Ed.. doi: 10.1002/anie.201410884 (本文を読むにはアクセス権が必要です)
ホワイトサイズ教授によると、第二次大戦後の数十年間は、化学が繁栄を謳歌した時代でした。産学両界、また基礎・応用研究が密接な関係を保ちながら発展し、有機合成、量子化学、分子シミュレーションなどさまざまな分野で大きな成果を上げてきました。しかし繁栄の時代は終わりを迎え、1990年代以降、画期的な化学製品や発見は生まれにくくなっています。
研究体制にも変化がありました。かつては企業の研究所が基礎研究で重要な役割を担っていた時代がありましたが、近年は基礎研究から手を引き製品開発に特化する傾向が進み、金銭的収益ではなく社会的利益を生むような種類の研究への関心が薄れています。一方、大学での研究に対する資金配分を左右するピアレビューでは、確立された研究課題に取り組む小規模な研究グループが評価を得やすい一方、より大きな課題に挑戦する大規模な共同研究が評価されにくい傾向にあると同教授は指摘します。「有機合成」「生物無機化学」「表面」といった小分野に細分化する「部族化 (tribalism)」の傾向も強まっています。
そうした中でも、化学が扱う課題が底をついたわけではありません。同教授の目から見て、知的なチャレンジと社会への影響という両面で、化学には多くの新しい機会が溢れていますが、新しい課題は過去のものに比べて幅広く、また複雑になっています。今後の化学が解決すべき問題として同教授は、次のような24の研究課題を例示しています。
- What is the molecular basis of life, and how did life originate?
- How does the brain think?
- How do dissipative systems work? Oceans and atmosphere, metabolism, flames.
- Water, and its unique role in life and society.
- Rational drug design.
- Information: the cell, public health, megacities, global monitoring.
- Healthcare, and cost reduction: “End-of-life” or healthy life?
- The microbiome, nutrition, and other hidden variables in health.
- Climate instability, CO2, the sun, and human activity.
- Energy generation, use, storage, and conservation.
- Catalysis (especially heterogeneous and biological catalysis).
- Computation and simulation of real, large-scale systems.
- Impossible materials.
- The chemistry of the planets: Are we alone, or is life everywhere?
- Augmenting humans.
- Analytical techniques that open new areas of science.
- Conflict and national security.
- Distributing the benefits of technology across societies: frugal technology.
- Humans and machines: robotics.
- Death.
- Controlling the global population.
- Combining human thinking and computer “thinking.”
- All the rest: jobs, globalization, international competition, and Big Data.
- Combinations with adjacent fields.
化学の課題としてなじみ深いものとそうでないものが混じっていますが、詳しくは本文をお読み下さい。ホワイトサイズ教授は、現在の化学研究の体制はこういった新しい課題に対処するには向いていないとして、大学・産業界・政府が向かうべき方向を提案しています。
また同教授は、科学における「基礎」と「応用」の関係について、両者が共存するパスツールの研究アプローチを模範として提示します。パスツールは「狂犬病」「牛乳の腐敗」といった現実の課題を解決するために、単に既存の知識を「応用」したのではなく、「免疫学」「微生物学」という全く新しい科学を生み出しました。同教授は、現代のピアレビュー制度の下にいたらパスツールは苦労していただろうとして、そういった斬新な研究を受け入れるためにピアレビュー制度の修正が必要だと主張します。
エッセイの締めくくりにあたりホワイトサイズ教授は、化学が社会から支持を受けるには、学問分野として「エキサイティング」であることが重要だと訴えています。単に便利な製品を生み出すだけではエキサイティングと見てもらえません。生物学・物理学・天文学などはそれぞれのやり方でエキサイティングであり続けているのに対して、化学はどうかというと、社会も、また多くの化学者自身も、生物医学・脳科学など他分野と比べてエキサイティングでないと認識しているのではないかと同教授は言います。
ホワイトサイズ教授は、パーティーの席上などで一般の人から「化学者は何をしているの」と聞かれたときに、二通りの答を用意しているそうです。ひとつは「これこれの役に立つ製品(例えば医薬品)を作っている」というものですが、相手にとってあまり面白い答ではありません。もうひとつの、もっと良い答は次の一文だそうです。“We change the way you live and die.”