化学ニュースサイトChemistry Viewsで5月に連載が開始された “Strychnine: From Isolation to Total Synthesis” (ストリキニーネの化学 - 単離から全合成まで) は、ベルリン自由大学の元教授で化学ライターのKlaus Roth氏がストリキニーネ研究の歴史を豊富なエピソードとともに振り返るエッセイです。マチンの木のナッツ状の種子(右写真)に含まれるストリキニーネは、アガサ・クリスティらのミステリー作品を通じて毒薬として有名になっただけでなく、化学史上の巨人たちが研究に挑んだ非常に重要な化合物でもあります。研究の前史というべき第1部を受けて、今回公開された第2部はいよいよ佳境に入り、ストリキニーネの構造決定と初の全合成達成に至る過程を描きます。
- 記事を読む Strychnine: From Isolation to Total Synthesis – Part 2 (June 2, 2015, Chemistry Views)
ストリキニーネは1818年という早い時期に単離され、次いで1830年代には元素組成 (C21H22N2O2) が確定しました。しかしストリキニーネは、きわめて複雑な立体構造をもつため、その後100年以上の間、化学者たちの度重なるチャレンジにも関わらず構造決定に至りませんでした。ストリキニーネの構造決定という難題は多くの化学者を魅了し、それに挑んだノーベル化学賞受賞者だけでもロバート・ロビンソン(1947年受賞)、ウラジミール・プレローグ(1975年受賞)、ハインリッヒ・ヴィーラント(1927年受賞)、ロバート・バーンズ・ウッドワード(1965年受賞)といった名前が挙がります。そのひとりであるプレローグは、後の自伝の中で「ストリキニーネほど構造決定に実験的・知的努力を要した有機化合物は他にない」と語っています。
構造決定をめぐる競争は、あたかもエベレスト世界初登頂を競うかのように熾烈を極め、その中で化学者間の個人的な軋轢も生みました。1947年の春にウッドワードは、ロビンソンが提案した構造を “pure fantasy” と退けました。結局ウッドワード自身、ロビンソンとは独立して正しい構造を発見するのですが、その年にノーベル化学賞を受賞したロビンソンは、12月に行った受賞講演の中で、プレローグらによるストリキニーネ研究への貢献を称える一方で、ウッドワードの名前は一度も言及することがありませんでした。
ロビンソンとウッドワードらによって決定された構造が1950年にX線解析で確認されると、化学者たちの次の関心事は「ストリキニーネの全合成」に移りました。構造決定以上に難しいこの課題に真っ先に挑んだのが他ならぬウッドワードで、1948年に早くも合成戦略を発表し、続いて1954年に29段階で全合成を達成しました(収率0.1%以下)。彼はストリキニーネの生合成経路を模倣しようとしましたが、当時その生合成経路は明らかでなかったため、重要な部分を推測で補うよりありませんでした。ウッドワードは、ストリキニーネの前駆体をトリプトファンとフェニルアラニンと考え、めざす構造を得るためにフェニルアラニン中のベンゼン環に対して酸化的開環反応を用いました。この開環反応の使用法はきわめて独創的だったため、ライバルであったロビンソンも自らの研究にすぐに採用し、”Woodward cleavage” と呼んで称賛したほどです。いずれにしても、当時の未熟な合成技術を用いて、低収率とはいえ複雑極まる構造のストリキニーネの全合成を達成したウッドワードの業績は、化学史上の金字塔として現在も輝いています。
興味深いことに、その後アルカロイド類の生合成に関する研究が進んだ結果、ウッドワードが構想したストリキニーネの生合成経路は誤りであったことがわかりました。ストリキニーネの前駆体を、前述のようにウッドワードはトリプトファンとフェニルアラニンと考えましたが、実際にはトリプトファンとセコロガニンでした。ウッドワードによる斬新な “Woodward cleavage” も、自然界でストリキニーネが生成する過程では起こっていませんでしたが、そのことによって彼の業績の価値が減じることは全くありません。著者Roth氏は、仮にウッドワードが1949年の時点で正しい生合成経路を知っていたとして、当時使えた反応をツールとして全合成を試みていたら、成功したかどうかは大いに疑わしいと語っています。誤った前提から出発したからこそ結果的に成功した、という科学史上の面白い例の一つに数えられるかもしれません。
☆ 今後の連載予定 ☆
Strychnine: From Isolation to Total Synthesis – Part 3
What can we learn from the total synthesis of strychnine?
Strychnine: From Isolation to Total Synthesis – Interview
Christine Beemelmanns and Hans-Ulrich Reißig explain why they developed the 17th total synthesis of strychnine