化学ニュースサイトChemistry Viewsで先月スタートした連載エッセイ “The Saccharin Saga” (サッカリンの物語) は、ベルリン自由大学の元教授で化学ライターのKlaus Roth氏らが2011年にドイツ語で発表したエッセイを英語訳したもので、世界初の人工甘味料サッカリンをめぐる豊富な歴史的エピソードを紹介します。(月1回連載・全6回で完結予定) 前回の第1話は、偶然によるサッカリンの発見の経緯を取り上げましたが、今回の第2話では、製糖業界の圧力によってサッカリンの生産流通に課せられた厳しい規制と、その網の目をかいくぐるための密輸の手口が語られます。原文は下のリンク先からお読みいただけます。
- 記事を読む The Saccharin Saga – Part 2 (October 6, 2015, Chemistry Views)
サッカリンの発見者Constantin Fahlbergの叔父で裕福な商人だったAdolph Listは、交通の便に恵まれた独マクデブルク市のザルプケ地区に工場を設け、1887年3月9日にサッカリンの生産を開始しました。Fahlbergによる初期の合成法はトルエンを出発物質とするものでしたが、生成したサッカリンに不純物(4-スルファモイル安息香酸)が40%も含まれることが数年間にわたって見過ごされていました。この問題に気付いたFahlbergは、1891年になって精製のための工程を導入し、純粋なサッカリンを得ることに成功しました。これによって、サッカリンの甘味度(甘味の強さをショ糖(砂糖)を1として比較する指標)はそれまでの300から550にまで改善されました。
サッカリンの独占的生産者だったFahlberg, List社は、当初は高価格の維持に成功しましたが、間もなく合成法を改善したvon Heyden社などの競合業者の参入により、20世紀初めにかけてサッカリンの価格は急速に下落します。Fahlberg, List社は1896年にサッカリンの名前を商標登録したため、他の業者はZuckerin, Sucrinなど別の製品名を付けていましたが、1932年になってFahlberg, List社が商標権を放棄したことにより、サッカリンの名前は各社共通で使われるようになりました。
サッカリンの生産が始まった当時、ドイツなどの欧州各国ではテンサイ(サトウダイコン)による砂糖の生産が活発でした。そうした中で、砂糖の1/550の量で同じ甘味を得られ価格面でも圧倒的に優位にあるサッカリンに対して製糖業界は危機感を強め、政治家に強い圧力をかけました。その結果、ドイツなど主要な欧州各国でサッカリンの生産と流通は厳しく規制されるようになりました。例えば1902年にドイツで成立した第2次甘味料規制法は、Fahlberg, List社を同国で唯一のサッカリン生産者として認める一方、薬用以外の目的でのサッカリンの使用を禁じました。その結果、サッカリンの生産量は1901年の170トンから1903年には3-5トンまで激減し、同時に砂糖価格は23%上昇しました。このように人為的な流通規制が行われると、密輸によって利益を得ようと企てる者が出てくるのが常です。1910年頃の中欧では、サッカリンの生産規制や課税を行わない国が一つだけ存在し、それがスイスでした。スイスと周辺国との国境地域では、住民が衣服の下に隠し持つなどして、サッカリンの持ち出しを頻繁に行いました。それに対して、税関検査が厳しかったオーストリアとの国境では、高濃度のサッカリン溶液をロウに混ぜ込んで、祭儀用のロウソクに成形して税関の目をごまかすなど、より組織的で高度な手法が使われました。一方、独バイエルンのビショッフスロイト村の住民は、ボヘミアの守護聖人「ネポムクの聖ヨハネ」の木製像の中をくり抜いてサッカリンを忍ばせ、2週間ごとに宗教的な行進に見せかけてオーストリア側に持ち込むことを何年も続け、一度も発覚しなかったそうです。
こういった事情は、1914年に始まった第一次大戦を境に一変しました。交戦中のドイツでは、ジャガイモや穀物の生産が優先されたためテンサイによる砂糖の生産が激減し、砂糖はクーポンによる配給制となりました。そうした中でサッカリンの生産流通を厳しく制限した甘味料規制法は一時停止され、Fahlberg, List社とvon Heyden社はサッカリンの大幅増産が認められました。その後、第二次大戦後の1950年代初めには、砂糖の流通量が増えたためサッカリンへの需要が低迷するようになり、時代遅れになったドイツの甘味料規制法は、西ドイツ議会で1965年にようやく廃止が決まりました。
上のリンク先にある原文では、さらに詳しい内容が盛り込まれていますので、興味のある方はぜひご一読下さい。11月公開予定の第3話は、人工甘味料に対する健康面での懸念の問題を取り上げる予定です。