ちょうど百年前にあたる1912年のノーベル化学賞は、二人のフランス人ヴィクトル・グリニャール(Victor Grignard)とポール・サバティエ(Paul Sabatier)に授与されました。受賞理由は、グリニャールが「グリニャール試薬の発見」、サバティエは「微細な金属粒子を用いる有機化合物の水素化法の開発」でした。フランス人によるノーベル化学賞受賞は、アンリ・モアッサン(1906年)とマリー・キュリー(1911年)に続く三度目でした。このほどAngewandte Chemie International Editionに掲載された化学史記事では、二人がノーベル賞受賞に至るまでの道のりを、当時のフランス化学界の状況と照らし合わせながら描いています。
⇒ Kagan, H. B. (2012), Victor Grignard and Paul Sabatier: Two Showcase Laureates of the Nobel Prize for Chemistry. Angew. Chem. Int. Ed.. doi: 10.1002/anie.201201849 (本文を読むにはアクセス権が必要です)
受賞した二人に共通するのは、ともに受賞を逃した共同研究者との確執を招き、研究への貢献度をめぐる論争に巻き込まれたことです。グリニャールは、1900年にリヨン大学での師フィリップ・バルビエール(Philippe Antoine Barbier)から、マグネシウムを使った有機合成に関する研究を引き継ぎました。バルビエールは、それまでの自分の取り組みでは再現性がよくなかったため行き詰まり、ちょうどPhDの研究テーマを探していたグリニャールに研究を引き継がせたものです。グリニャールは独自の工夫によりグリニャール試薬の発見に至りましたが、それに関する彼の多数の論文のうち、研究室のボスでありしかもテーマを与えてくれたバルビエールを共著者に入れたものは一報もありませんでした。
グリニャールのノーベル賞受賞に先立つ1910年に、バルビエールはグリニャールの功績は自分のアイディアに基づいていると主張し、フランス国内で論争を引き起こしましたが、グリニャール一人の功績を認める大勢は覆りませんでした。(グリニャール自身は、論争にもかかわらずバルビエールと良好な人間関係を維持し、また友人への手紙の中でバルビエールとの共同受賞を望んでいたそうです。)バルビエールが論文の共著者にされなかった理由について、今回の記事の著者Henri B. Kaganは難しい問題としながらも、アイディアが豊富で次々と新しいプロジェクトに取り組んだバルビエールは、グリニャールに譲ったアイディアを(グリニャールが結果を出すまで)重要と思っていなかったのではないか、と推測しています。
一方サバティエの場合は、1907年に彼の研究室を去った共同研究者サンドラン(Jean Baptiste Senderens)が、自分の貢献をサバティエが認めていないと不満を持ち、ノーベル賞を共同受賞できなかったことに抗議の声をあげました。これもフランスで論争を引き起こしましたが、サバティエは受賞記念講演でサンドランの名前に4回言及するなど、関係回復に努めたようです。